September 29, 2013

希求力のあるオーディオ機器

先日、LINNからEXAKT systemが発表された。
オーディオの進化を実感させる説得力を持っている。音楽を普通の部屋できちんと楽しむために、現在あるテクノロジーをどのように使えばよいかを正攻法に考え、実装したものだ。測定による自動補正に頼らないという決断も正しい。

ステレオサウンドに出ていた、デビアレとオーレンダーの製品。素晴らしい。なによりもその製品が何故そうでなければならないのかを語れるコンセプト、そしてその希求力が素晴らしい。

これらの製品は、デジタルファイルを含む多様なソースから、いい音を、ユーザーに煩わしさを感じさせずに提供するものだ。いよいよ、ハイエンドオーディオにおいても音楽ソースの主流がディスクからファイルに変わるのだな、と感じた。

でも、何故かわからないけど・・・・悔しい。
何故こういう製品が日本のメーカーから出ないのだろう。充分な技術があり、人材も資材も揃っているはずなのに。

マランツのNA-11S1、SA-11S3。デノンのDCD-SX1。今度出たソニーの一連のハイレゾ対応機器。「良くこの値段でこのクオリティのものを作れるな」と思う。関わった人たちの凄い努力が滲み出ている。でも、彼らに与えられた「枠」が小さすぎると思う。そして、それが一つ一つの機器のレベルで止まってしまっている。これらから出てくる音のクオリティや機能の問題じゃない。問題なのはその製品のクオリティを生かすコンセプト、そしてそれに見合う希求力・説得力があるかどうかだ。

そういう希求力・説得力は、そのメーカーの思想やブランドイメージと密接に繋がっている。日本のメーカーは、自らのブランド価値をどう思っているのだろう。アキュフェーズやエソテリックなどのいわゆるハイエンド専業メーカーのことではなく、もっと大きなメーカーのことだ。

SONYはいまだに全世界的に素晴らしいブランド価値を保っている。Marantzの欧米でのブランド価値は非常に高い。ONKYOやDENONはヨーロッパにおいて神話的な名声がある。しかし、その名声は近年、どんどん下がっていると感じる。

これらのメーカーの経営者たちは、今後の「ポスト・マスプロダクション」時代において、ブランド価値を保つことの重要性を本当に理解しているのだろうか?そのために必要なものはメーカーの思想を世に示す究極の製品なのではないか?

たとえば・・・・ソニーは「アコースティック・リファレンス」の思想に足るピュアオーディオ・エレクトロニクスとか、現在あるすべてのソースに対応するスーパーハイエンドAVセンターにフルデジタルアンプを積んだアクティブ・サラウンドシステム-SONYの名前を信じているインド・中東・中国の金持ちを満足させるクオリティと値段のフルシステムが必要なんじゃないか。1万ドルじゃなく10万ドルの世界だ。ゴールドモデルをオプションで提供することも重要。世界最高峰のデジタルアンプ技術をなぜ世に問わない?

デノン・マランツはB&Wとの協業でLINNを脅かすハイエンド・トータルソリューションが欲しい。このとき、もっとも重要なのは、音のコンセプトの統一とパッケージングだと思う。個々の機器レベルを超えた、ブランドの音の提示だ。デビアレのような一体型でもいい。MarantzのM-CR610を究極に高め、B&Wのシグネチュア・モデルに見合うものにできないか?

オンキョーはハイレゾの旗手として、オーレンダーに匹敵するものを作れるはず。コンピューター部門を手中にしている強みを存分に生かして、ハイエンドオーディオ機器に昇華したオーディオコンピューターを・・・既存のパソコンのモディファイのような中途半端なものではなく、すべてを一から作り上げたものを。OSから作っていい。そしてそれをピュアオーディオ機器とソフトウェアの連携で繋ぐのだ。

EXAKT systemなどを見て、そういう思いがふつふつと沸いてしまったのだった。日本人はチマチマと細部を詰めることは得意でそれは日本にしかできない長所。それを生かすコンセプトが欲しいと思う。それが希求力を生み、ブランド価値を創生する。

このことは、enchantMOONに対する思いとも交錯する。enchantMOON、使っていくとわかるんです、作り手の思いとコンセプトが。しかし、技術的な、もっと言えばリソースの制約でそれが100%は果たせないもどかしさがある。このくらいの突き抜けたコンセプトで例えばSONYや東芝が本気で作ったら、コンピューターのパラダイムを変えるような凄いものができるはずなんだ。何故、彼らにはできないんだろう?

ビジョンやコンセプトをしっかり持つことが日本人は苦手なのかもしれないが、それよりも、人と違うコンセプトを持った人を大きな心で受け入れ、支援する度量が日本の会社(いや、社会か)にもっとも欠けていることなのかもな・・・・。このままじゃ、日本全体が頑張っているのに報われない、小売スーパーのようになっていくんじゃないかなぁ。

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September 09, 2005

コストパフォーマンスを語ってみる(3)

さて、前回の結論は「金のある人にはコストパフォーマンスなど関係ない」であった。しかし、小市民は金がないのが普通である。なので、まず、製品の満足度を「絶対満足度」と言い換え、小市民の商品に対する真の満足度は以下のような式で表す。

真の満足度=絶対満足度÷製品の値段に対する拒否感

そして、商品の値段と、それに対する拒否感の関係は、次のような感じだろう。

グラフ5

costpffig5


つまり、拒否感は限界点aで無限大となる、指数関数的なものだろうと思う。この感覚は理解してもらえると思う。それを考慮に入れて小市民にとっての、値段と真の満足度の関係を書き表すと次のようになるだろう。

グラフ6
costpffig6


限界点a以上の価格の商品は、拒否感無限大で満足度もゼロである。買えない、といった方がいいか。中間価格帯のある点に満足度最大の点がある(b)。それ以上の値段では、値段に対する拒否感から製品に過剰な要求をしてしまい、結局のところ後悔してしまう。b以下の値段では相対的に高い満足度となる。これは、まぁ値段なりだなという割安感が付加されていると言える。

結果として、相当に安い場所に良い点があることになる。近年の大量生産・大量消費の時代を反映しているといえるだろう。この満足度にはコストによる補正が既に入っているので、心情的コストパフォーマンスレペル、と言い換えてもいいだろう。

これを、オーディオに一言ある人(とりあえず、オーディオマニア、と呼ぶことにする)に最適化するために、二つのパラメーターを導入する。

グラフ7と8

costpffig78


1)オーディオマニアは音質にうるさい。音質(絶対満足度)がある一定以上でなければ、まったく満足しないばかりか、腹が立って仕方がない。したがって、その点(c)以下では満足度はゼロとなる(グラフ7)

2)オーディオマニアの製品の値段に対する拒否感は、一般人と異なりある価格(d)までは指数関数的ではない。もちろん、その人の経済状況によって限界点amは存在するが、その点は一般人よりかなり右側にあり、そこまでは(パンの耳をかじってでも)買ってもいいと思っているのでamにおいても拒否感は無限大ではない(グラフ8)。

これらを勘案したうえで、マニアにとっての真の満足度と値段の関係を書き表すとグラフ9のようになる。満足度最大の点は高額価格帯に移動し(bm)、点cからその点まで右肩上がりの曲線を描く。bmより先はさすがに拒否感が大きくなり少しづつ満足度は下がってしまう。

グラフ9

costpffig9


このグラフから、マニアにとってのオーディオ製品は値段によって4つのクラスに分類されることになる。
A 満足度ゼロ地帯(~c)・・・“安物買いの銭失い”の言葉がぴったり。
B 満足度漸進地帯(c~bm)・・・アップグレードが楽しい、のめりこむ地帯。
C 満足度飽和地帯(bm~am)・・・投資に見合う見返りが得られない、苦しい地帯。
D 購入不能地帯(am~)・・・ショウルームや試聴室で見てはため息をつく地帯。

視聴スタイル、聞く音楽の種類、耳のよさ、キャリア等によってcやbmは変化する。オーディオマニアにとっては、現時点でのcとbmを見極めて、B地帯の製品(の中でさらにC/Pの高いもの)を買い、そこから徐々にbmに近づいていくのが一番楽しめるということになるだろう。bmに達したら、経済状況が変わるまではそこで止まり、ソフトなどの充実にお金を使うべきということになる。

経済状況によってamが大きく移動するのは言うまでもない。苦しいのはamが左に移ることである。ありがちなのは独身貴族の間はamがかなり右にあったのに、結婚して一気に左に移行するというケースだ。基本的にcやbmは徐々に右に動くので、下手をすればamがcに重なり、満足度ゼロ地帯が融合するという事態となる。こうなると、一般人に戻るか、何も買わないか、どちらかを選ぶしかなくなる。大概の人は一般人に戻り、30年後、退職金を手にマニアに戻ることになるのだ。

一応結論に達した。ただ、これは強引に一般化した概念であり実情とは異なる部分も多い。特に人が買い物をするときの浮かれた状況は、このような理論を受け付けないものがある(苦笑)。とはいえ、モノの値段とそれに対する人の心の動きのつぼは押さえていると思うのだが。オーディオに限らなくてもいいかもしれない。

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September 08, 2005

コストパフォーマンスを語ってみる(2)

オーディオを買うとなったとき、自分の状況でどのぐらいの値段のものを買えばいいのかをまず考えなくちゃならない。まあ、そんなことをぐじゃぐじゃと考えるのは優柔不断であって、本当に欲しいものがないからだ、といわれても仕方がない。ブランクが長すぎて、もはや何か買ってみないことにはわからないものがある。でも、安物買いの銭失いは避けたい。どうしたものか迷っているうちに、オーディオ製品のコストパフォーマンスについてしょーもないことを考えてしまった。以下に書いてみる。

オーディオ製品の良さは、純粋にそれの出す音によって判断されるべきだと思っている。そして、いい音とは何かという基準は人それぞれなので、それは非常に個人的な判断となる。
一方で、音のみでその製品の価値が決まるわけではないことも、認めざるを得ない。デザイン、ポータビリティ、使い勝手など、ユーザーインターフェースの部分は特に重要と思う。値段を抜きにして考えても、クレルの超ヘビー級のステレオパワーアンプと、iPod Shuffleを比べてどちらがすぐれているかなんて比べようがないのである。どっちかを貰えるのだとしたら、クレルだけど(笑)。その上に値段を判断基準に絡めて行くと、もっとややこしいことになる。理知的な判断など不可能に近い。そこで、値段と製品の良さの関係を、理系的に一般化してみる。

まず、オーディオ製品の値段と音質は比例する、と乱暴に仮定する。


グラフ1

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しかし大概の場合、高額の商品は数が出ないために、その値段には開発費、組み立てを行う熟練工の給料、さらには販売店の高額のマージンなどが付加されているので、中身に反映されるコストは相対的に少なくなる。また、高額の製品であればあるほどその実力を発揮させるためのハードルも高くなる。そのため、普通の使い方では、住居環境やソフトの質などの外部要因によってその製品から得られるパフォーマンスは抑えられてしまう。これを考慮に入れると、まぁこんな感じだろう。

グラフ2

costpffig2

一般論としてはこれで正しいんじゃないか。次に、それを個人に置き換えていこう。結局音質が良くてもそれが人の満足につながらなければ意味がないからである。

まず、その人が充分に金持ちで、精神状態が製品の値段によってまったく影響されないと仮定すると、音質を満足度にとりあえず置き換えることが出来る。つまり、グラフ3のAのようになる。
しかも、人は音質のみで満足するのではない。デザインの魅力、高額商品であるという満足感、製品の能書きによってもたらされる納得感・・・そういったプラセボ効果はその商品が高額であればあるほど強く働き、馬鹿に出来ない。逆に言えば、そういったものは人の音質に対する判断を狂わせる。だから、それを付加するとグラフ3のBのようになると思う。

グラフ3

costpffig3

それをコストパフォーマンスを縦軸として書き直すと

グラフ4

costpffig4


ということになる。なーんだ、金のある人にはコストパフォーマンスなど関係ない、好きなのを買えばいい、という至極まっとうな結論となるわけだ。

次回は、その結論を小市民にあてはめて、さらにはオーディオマニアに最適化する。
(続く)

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August 26, 2005

コストパフォーマンスを語ってみる (1)

何かを買うとき、人はどのように選んでいるのだろう。
無限にお金のあるビル・ゲイツででもないかぎり、何らかの形で買うものを選ぶことになる。
もちろん、人がそのモノの何かに魅惑され、衝動に突き動かされて後先考えずにそれを買ってしまうこともあるだろう。それはとても幸せな買い物だと思う。しかし、そのようなことは稀だ。そこまでの魅力のあるモノに出会うことはほぼないといっていい。店頭で見かけた何かについて、おぉ、これはと思ったところで、それにつけられた値札を見てヘナヘナと購買意欲が消えうせるのが普通だ。

コストパフォーマンス、という造語が喧伝されて久しい。上の例でもわかるように、人は自然に、そのモノの魅力と値段を秤にかけて、それを買うかどうかを決めているように思える。いや、コストパフォーマンスという言葉に支配されていると言うべきだろうな。

何でこんなことを思ったかというと、自分がオーディオ製品を買おうと真剣に思っているからだ。オーディオ製品こそコストパフォーマンスの権化のようなものだから、その呪縛が自分を締め付けるのをヒシヒシと感じる。そして、本当に欲しいものが何なのか、わからなくなってくる。どう頑張ってもdCSのDACはおろかMarantz DV9500すら買えないのだから、どこかで手を打たなくちゃならない。だけど、買える値段の範囲に本当に欲しいものがあるのかと言われると、うーーーん、と唸るしかないのである。そこで、コストパフォーマンスという言葉が出てきて、値段の割にはいい音出すらしいよというエクスキューズのもとに何かを買う意欲が出てくる・・・しかし、それは本当に心の底から欲しい物ではないのは確かだ。

そういえば、競馬の馬券を買うときにも同じようなことを感じるんだよな・・・・この馬だ、よしこいつで勝負だと思って窓口に走るが、オッズを見てそれが断然人気だと知ってへなへなとなる。そこで、そのかわりに馬の出来の割りには人気のない馬を買ってしまったりする。もちろん、押し並べて言えば人気馬を買うことは間違いだとはいえるが、このようなケースで人気の方が来て、自分の馬は全然話にならないとなると、そのときの落ち込みようはすごい。結局は初めに自分の思ったとおりに買うのが、精神衛生上は正しいのである。つまりオッズなんか見ちゃいけないのだ。

オーディオ製品も、本当は値札を見ずに買いたいものだ・・・・。
(続く)

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June 06, 2005

ハンブルクの馬場

Preis der DianaはIotaが勝った。展開などはドイツ競馬掲示板の方に書いたが、Hellierの強引なレース運びと、それに応えて見せたIotaの底力が光っていた。

しかし、とにかく馬場が悪すぎた。
せっかくいいメンバーが揃ったのに、まともな勝負になっていないことがとても残念。
ケルン周辺はそれなりにいい天気が続いて馬場もGutは当たり前なのに、北ドイツはそうではなかったらしい。同じ重馬場でも、ダービーの時には全面ボロボロでどこを通っても同じという、妙にフェアな条件になるのだが、今回は春先のブレーメンのような馬場だった。外側の一部だけ良くてあとはダメ。抜くには馬場の悪いところを通らなければならなず、先手を取ったもの勝ち。
何とかならんのだろうか・・・。

一方、コロネーションカップに出るはずのShiroccoはエプソムの馬場が例年になく堅いために回避。Idealistもフランスダービーは自重。なんだかなぁ。世界中で大レースがあったのに、ドイツ競馬的には何かパッとしない週末だったかな・・・。

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November 25, 2004

インプット

私は本を読むのが苦手だ。
本に限らず、他の人が書いた文章を読んだり、あるいは、話を聞いたりするのも苦手だ。
つまり、何か情報をインプットするのが苦手らしい。

ただ、本を読むのが嫌いか、人の話を聞くのが嫌いかといわれると、そうではない。
昔はよく本を読んだものだし、今も読んでみると楽しかったりする。
嫌いなのではなく、苦手なのだ。

他の人がどうなのかわからないけど、自分の場合はインプットの作業はしんどい。
どう言えばいいのだろう。
何か情報をインプットするには、他の人のメッセージを自分の言葉に置き換えて
完全に自分のものにする作業が必要だ。
いや、さらにその言葉はぼんやりとしたイメージ、自分にしか理解できないであろう、
不定形なものにまで変換されていくという感覚がある。

単にそれをそのまま記憶することはできない。
そういう、デジタルな記憶力が私には欠けているからだ。
だから・・・有意な情報に触れると、頭の中はいそがしい。
そう、キャプチャした動画をソフトウェアエンコードするような感じである。
読んだ(聞いた)時には、その生のデータは一時的にどっかに格納されていて、
それはゆっくりと何日もかけて、圧縮された、アクセス可能なイメージに
変換されていく・・・そういう感じである。

だから、どうしてもインプットできる量というのは少ないし、しんどい。
インプットを多くしすぎると、端的に眠りが浅くなるし、ますます人の話を
聞けなくなったりする。いわゆる、上の空という状態になる。

しかも、少なくても、それは自分を変化させる。

言い訳でしかないが、だから、インプットすることを敬遠してしまう。
しかし、仕事上、インプットの量がアウトプットの量に比例するから、
そう言っていられないという今日この頃である。

すらすらと物を暗記してしまったり、一度聞いた話は忘れないというひとがいるが、
そういうひとは本当にそれを理解しているのだろうか。私には信じられない。
中には、ハードウェアエンコーダーを内蔵していて、
リアルタイムで記憶と理解が同時にできるひともいるのだろう。
そういう人は、どうやって自分を保つのだろうか。

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November 14, 2004

スタートポイント

ブログというものを始めてみることにした。
いくつか理由があるのだが、それらのほとんどは後から取ってつけたものだろう。本当の理由は、たぶん、何か閉塞感を感じているからだと思う。

まず、ログの名前をつけなくてはならない。
とりあえず「遷移点」という名を与えることにする。
自分の中で同時進行するいろんな思考の間をつなぐ点として、ここに何か書いていこう。つまりは・・ログの名前をもって何らかの縛りをあたえることを避けたということだ。

とりあえず通知はしない設定にしておこう。
とはいえ、この記事はウェブ上にはあるわけだから、まったくの非公開というわけではないことは承知している。「ブログは日記のように記事を書いていくだけで・・」などと紹介されるが、他人が読むことを前提に書かれるブログは日記とはまったく異なるものだと思う。私も、書くことによってなんらかの人との接点を期待しているのだろう。まぁ、日記帳に手書きで書かれた日記も、もしそれが鍵付きの引き出しに隠されたものであったとしても、いつかは他人に読まれることを心の片隅に置いて書くものかもしれないのだけれど。

また、他人が読むことを前提にするということは、ちゃんと書かなくてはならない、という縛りを自分にあたえることだ。その縛りを利用して、できる限り簡潔におもしろく書くように努力しよう。そういう訓練は常にしておくべきだ。おちゃらけず、崩さず、でもちょっとスパイスが効いていて読みやすい。そんな文が書きたいと思っている。

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